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Oct 21 2008

再びデジタル・ハードコアへ向けて、あるいは眼差しの科学
~ハードSFとしてのサイバーパンク~
                                        菊池誠 

 ハードSFとしてのサイバーパンク、というのがお題である。このお題、ほんとはちょっと困る。サイバーパンク小説の一部は、僕にとって自明にハードSFなので、ひとつには、何を今更という気がしないでもない。一方で、ハードSFファンとハードSF嫌いの双方に、ハードSFを狭く捉えようという風潮があるようで、僕にとってハードSFでも、あなたにとってはハードSFじゃないかもしれない。だから、このお題、下手をすると、サイバーパンクとは何か、ハードSFとは何か、という二重の定義問題を抱え込みかねないわけだ。それでなくても、SFファンは定義問題が好きだからね。定義なんかやってたらきりがないから、今回は初めに宣言しておく。定義なんかしない。僕がサイバーパンクだと言ったらサイバーパンクだし、ハードSFだと言ったらハードSFなのだ。もうひとつ、サイバーパンクはハードSFか、などというナンセンスな問は却下。たとえば、いくらなんでも“ガーンズバック連続体”(傑作!)をハードSFと呼ぶわけにはいかないだろう。そういうトリビアルなナンセンスははじめから却下。

 さて、サイバーパンクがその初期から“科学”に強い関心を表明していたことは、まぎれもない事実だ。それは、たとえば巽孝之氏の“サイバーパンク・アメリカ”を試みにひもといてみればわかる。そう、ブルース・スターリングがオムニアヴェリタス名義で“インターゾーン”誌に発表したエッセイっていうのはどうだ。オムニアヴェリタスによれば、新たなるサイエンス・フィクションへ向けて留意すべき五つの点のうち、第一は『真の現代科学への関心』だという。真の現代科学への関心! 素晴らしい。現代科学に向けるこのまなざしこそがハードSFの条件だ。そして、第二は『外挿法を軸にした想像力の再評価』。科学と外挿とくれば、これは“ハードSF宣言”以外のなにものでもない。無論、あと三つあるところが、サイバーパンクのサイバーパンクたる所以なのだけどね。

 そのスターリングは、巽氏のインタビューに対して、『サイバーパンクの本質というのは、結局ニューウェーブSFとハードSFの統合なんだよ』、『(自分の)本領はやっぱり「ラディカルなハードSF」なんだな』と発言している。たしかに、ルーディ・ラッカーを別にすれば、スターリングはサイバーパンク作家の中でも特に科学志向の強い作家だと思う。この時点で自分をハードSF作家と位置づけていることも、作品を読めばうなづける。ただし、ハードSFの前に“ラディカルな”という言葉をつけていることに注意しよう。旧来のハードSFとは一線を画した、あくまでもラディカルなハードSFでなくてはならないのだ。

 あるいは、同じスターリングによるサイバーパンクのマニフェスト、“ミラーシェード”序文はどうだろうか。サイバーパンクというレッテルが確立する以前には、上述のラディカル・ハードSFのほかにアウトロー・テクノロジストというレッテルも使われたのだという記述。また、『サイバーパンクにとって、テクノロジーは本能的なものだ』という見解。現代科学と、そしてテクノロジー。科学と技術による社会の変容、というテーマは、極めてハードSF的であり、また極めてサイバーパンク的だ。

 ウィリアム・ギブスンの“ニューロマンサー”を見ればいい。未来社会のディテールやテクノロジーの詳細な描写。それはたとえば、スペース・コロニー、電脳空間、人工知能、身体改造、合成ドラッグ、人格を移植したROM、シムスティム。僕たちはこういうのを昔からハードSFと呼び習わしてきたのじゃなかったか。なにかが違うとすれば、使われているテクノロジーの質か、それともあまりにも軽々とテクノロジーを受容している社会の姿か。テクノロジーのモラルでも驚異でもなく、あくまでも“そこにあるもの”としてテクノロジーを捉えるのが、ラディカル・ハードSFのラディカルたる由縁なのだろう。 もっとも、ハードSFとしては、アイデアが科学ではなくテクノロジーに寄りすぎていると思うかもしれない。テクノロジーを描くだけのSFなら、ハードSFとしてそれほど程度が高いとは言えないかもしれない。だけど、“ニューロマンサー”は、最終的には、人工知能が自らをコンピュータ・ネットワーク内に解放するという物語なのだ。物語の最後に、かつてウィンターミュートと呼ばれていたその人工知能は、『どうなったんだい』と問われて、『全体なんだ』と答える。人工知能がネットワークに解放されたことによって、ネットワーク全体がひとつの知性を形成するに至ったというこの結末は、複雑系流に言うなら、まさに創発。だから、“ニューロマンサー”を人工知能と創発をめぐるハードSFと位置づけることはたやすい。

 スターリングの“スキズマトリックス”。スペース・コロニー世界を舞台に権某術数うずまく政治と異星人とのコンタクト、そして人類の進化を描いたこの小説は、なにせ本格的な宇宙小説なだけに、ハードSFであることは自明として、ではどこが“ラディカル”なのか。“ニューロマンサー”との共通点はいくつでも見つけられる。未来社会の詳細な描写もそうなら、テクノロジーのありかたもそう。身体改造や合成ドラッグ、スペース・コロニーといったテクノロジーの質にも共通するものがある。もちろんそれだけではなく、テラフォーミングのように宇宙小説特有のテクノロジーも登場する。

 そして、ここでもまたハードSF的にはテクノロジーよりむしろ科学が重要だというのなら、スターリングがこの小説の中で人類の進化をどのように扱ったかを思い出せばいい。宇宙に進出した人類は、環境やテクノロジーによって、いくつもの系統に別れて進化してゆくことが示唆される。スターリングお得意のポストヒューマン思想。その進化を説明するキーワードとして選ばれたのが、プリゴジンの名を冠した『複雑性レベル』であり、システムの自己組織化だ。この小説が書かれた85年の段階で、曲がりなりにも進化と複雑性に言及していることは、スターリングの“現代科学への関心”を端的に示すものと言っていい。なにしろ、組織としてのサンタフェ研究所が設立されたのは84年なのだから。今や流行語大賞だってもらえそうな勢いの『複雑系』なんていう言葉も、まだ流行語でもなんでもなかった。だからこそ、プリゴジンなのだろう。サンタフェが話題になる以前には、複雑な開放系といえば、まずプリゴジンの名前が挙がったものだから。逆にいうと、恐らくは今この“スキズマトリックス”が書き直されるなら、違ったキーワードによる別の複雑性の物語になるのだと思う。結局、それは“ディファレンス・エンジン”に持ち越されることになるのだけど。余談ながら、複雑性に絡んで“統計物理学”という言葉が正しい文脈で使われていたのには少々驚いた。なかなかやるね。

 じゃあ、その“ディファレンス・エンジン”はどうなのか。ギブスンとスターリングの共作になるこの作品、僕にとってはこれこそがサイバーパンクの到達した現時点での最高傑作だ。サイバーパンクを離れても、90年代SFの最高傑作だと僕は信じるのだけど、まあそこは異論が多いかもしれない。それはともかく、チャールズ・バベッジの考案になる蒸気コンピュータ“解析機関(アナリティカル・エンジン)”が実現していたという設定の“もうひとつのヴィクトリア朝”を舞台にした歴史改変小説が、ハードSFの要素を持ち得るのだろうか。蒸気コンピュータなど、少々風変わりではあっても、所詮ローテクにすぎないのではないだろうか。もちろん、ハードSF的な要素は持ち得る。それどころか、ギブスンとスターリングが歴史改変という手法によって作り上げたのは、“もうひとつの科学史”“もうひとつの技術史”なのだから、むしろこれがハードSFでないはずがない。

 この“もうひとつの科学史”では、発見の歴史にいくつもの逆転現象が起きている。たとえば、ブロントザウルス(アパトザウルスではない)の生態については現代的な恐竜観が採用されているし、バージェス頁岩から採取された化石からはアノマロカリスやオピバニアが正しく復元されている。この歴史の逆転は単なるしゃれではなく、解析機関と深く関わっている。たとえば、恐竜の生態が理解できたのは解析機関による応力解析の成果だ。こうした“もうひとつの科学史”の中で、一番驚かされるのは激変説の扱いだろう。この時代、進化や地球物理学的な現象については、キュヴィエの激変説とライエルの斉一説が対立している。ここは僕たちの知る史実の通り。ところが、この“もうひとつのヴィクトリア朝”では、なんと激変論者はカオス理論によって理論武装しているのだ。いや、これは当然、そうでなくっちゃならない。なにしろ、解析機関による計算機シミュレーションが科学研究の手段として持ち込まれているのだから。たとえば、エドワード・マロリーのこのセリフはどうだろう。『自然は明らかに跳躍するんです』『機関(エンジン)の模擬実験(シミュレーション)でも証明されています。複雑なシステムは、突然に変換を起こすことがあるんです』。そう、確かにヴィクトリア朝時代に計算機シミュレーションが実用化されていたなら、相対論や量子力学に先立ってカオスが発見され(もちろん、僕たちの歴史でもポアンカレがカオスを発見してはいたのだけれど、その意義が認識されるのはずっとあとのことになる)、複雑系の研究が行われていたかもしれない。つけくわえるなら、冒頭では、競争自動車の設計に流体シミュレーションが使われている事実も明かされている。計算機シミュレーションが科学にあたえるインパクトをはっきりとつかんでいるあたり、ギブスンとスターリングが現代科学を確かな目で見つめている証といっていい。

 そして、もちろんハードSFとしてのハイライトは、結末にある。モーダスと呼ばれる自己言及プログラムが解析機関に与えられたとき、解析機関はなんと不完全性定理を証明してしまう。たしかにゲーデルの不完全性定理は計算機科学と密接な関係があるし、それが自己言及性に関係することも事実。そしてまた、自己言及性は自己認識の問題とも深く関係している。だから、当然のように、物語の最後には、蒸気コンピュータの物語を紡いできた“電子”計算機の中で、自己認識できる知性が誕生する。“ディファレンス・エンジン”は“ニューロマンサー”を更に深化させた人工知能(ないしは人工生命)SFなのだ。

 そうはいっても、ごった煮度では“スキズマトリックス”を遥かに越えて、百科全書的ともいうべき作品になった“ディファレンス・エンジン”のこと、これだけで済むはずがない。日本版の巻末には、わざわざ物語解読のための“差分事典”が付されてはいるけれど、たとえば『周期倍化』という言葉さえ載っていないのだから、これだけではまったく不充分だ。別にそれは悪いことじゃない。読み解く楽しみがあるし、読むたびに新しい発見がある。そもそも、優れた小説は再読・三読に耐えるはずで、それならなにも一読目ですべての内容が理解できる必要もない。何度でも読めばいいだけの話。考えてみると、“ニューロマンサー”や“スキズマトリックス”にしたところで、懇切丁寧な説明なんて、どこを開いたって書いてなかった。そりゃそうだ、懇切丁寧な説明なんて、かっこ悪くってやってられないもの。

 翻って、最近のハードSFときたら、なんでああまで説明過剰なのか。上に書いた『周期倍化』に関連して、エドワード・マロリーの言葉をもう一度引用しよう。ロンドン市内のあらゆるシステムが不調に陥っている理由を、彼は『相互共同作用の連鎖で――システム全体が周期倍化で混沌に向かっているんだ』、『素人言葉で言うなら、すべては二倍早く、二倍悪くなり、やがて何もかも、完全に駄目になる、ということさ』と説明する。つまり、ロンドンで起きているのは、あの“ジュラシック・パーク”の崩壊を引き起こしたのと同じ現象だというわけだ(ちなみに、これが“ジュラシック・パーク”より半年先んじていることは特筆に値する。“ジュラシック・パーク”と同様に各章が“反復(イテレーション)”と呼ばれているのは、もちろん偶然の一致ではない)。一方でイアン・マルカムが小説全体を通してくり返し説いたのと同じ内容が、“ディファレンス・エンジン”の中ではたったこれだけの言葉で語られてしまう。その“ジュラシック・パーク”にしたところで、所詮はエンターテインメントだけに、普通のハードSFよりはよほど説明が少ないはずなのだけど。

 ジーリー・シリーズでハードSFファンの絶大な支持を得ながらも、やれ小説が下手だとか、文学になってないとか言われたスティーブン・バクスターが、一転して歴史改変ものでは(依然として、ごりごりのハードSFなんだけど)、以前よりはるかに完成度の高い小説を提示しえている理由のひとつもここにあるのかもしれない。小説としての完成度を求めるなら、ハードSF作家は説明しすぎる誘惑から逃れなくてはならないのだろう。歴史改変はそのためのしかけとして働いている。一方、サイバーパンクはと言えば、“かっこ悪いことはしない”というただそれだけの原理で、説明しすぎの呪縛を軽やかに逃れてしまったのじゃないだろうか。

 いや、それにしてもだ、実はどれほどハードSFとしての評価をしたところで、“ディファレン・エンジン”なり“スキズマトリックス”なり“ニューロマンサー”なりを理解したことにはならないんだ。“ニューロマンサー”にしろ“スキズマトリックス”にしろ、ハードSFとしての水準は非常に高い。“ディファレンス・エンジン”にいたっては、ハードSF・オールタイムベストを選んだって五本の指にはいる作品だと思う(ちなみに僕なら二位にいれる)。だけど、どちらもそれ以前にサイバーパンクなんだよな。上のほうで、僕が“ハードSF的に云々”と書いてきたポイントは、確かにハードSFの視点では重要なのだけど、作品そのものにとって最重要とは限らない。むしろ、こういう作品にとって、ハードSFであることは自明の前提なのだと思う。ハードSFであること自体が目的となっているような作品群とは本質的に違う。だから、本当は長々と書いてきたこの文章も、蛇足といえば蛇足なのだ。

 この文章を書くために、いくつかの作品を再読・三読した。時間的には大変だったのだけど、いい機会でもあった。いろいろな発見もした。“ニューロマンサー”のかっこよさは、14年経った今でも、まったく色あせていない。それにひきかえ、どうも最近はかっこわるいSFが多すぎるんような気がする。“スキズマトリックス”が、破綻しまくりの力技小説でありながらもかっこいい傑作になり得たのに対して、同様にナノテクノロジーやテラフォーミングといった現代的な科学を取り入れ、同様に充分に政治的で、しかもハードSF以外のなにものでもないアイデアを使ったグレッグ・ベアの大作“火星転移”が、結果としてなぜあんなにダサい小説になってしまったのか。そこらあたりが、これからのハードSFを考えるための鍵かもしれない。ハードSFだって、いくらでもかっこよく書けるんだっていうことを、“ニューロマンサー”を読みなおして再確認したほうがいい。かっこ悪いよりはかっこいいほうが素敵に決まってる。

初出:SF Online 第12号(98/2/25)「15年目のサイバーパンク」特集

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